北九州で暮らす知恵

北九州の城下町・小倉

小倉城下町古地図

1602年から細川忠興が建設した小倉城と城下町の古地図です。紫川を挟んで、城下町は、東西に分けて作られました。東はおもに町人や下級武士が住む町、西は武家屋敷とされました。これが現在の小倉の中心市街地の基盤です。

小倉は、長崎街道・中津街道・秋月街道の起点でもありました。古地図にも、紫川に掛る常磐橋が記載されています。小倉城は幕府の九州支配や水陸交通の要の城でした。

小倉城展示パネルを撮影

現在の小倉城下町

小倉には、仕事をそのまま町の名前にした町名があります。これは、江戸時代から同じ仕事をしていた人が同じ町に多く住んでいたからです。

魚町 魚を売る仕事をしていた人が住んでいた町
馬借町 馬を使って荷物を運ぶ仕事をしていた人が住んでいた町
船頭町 船で仕事をする人が住んでいた町
米町 米を売ったり運んだりする人が住んでいた町

小倉は、中津街道や長崎街道の出発点であったので「九州のすべての道は小倉に通じる」と言われていました。城下町から街道に通じる門は八ヶ所ありましたが、香春口門(今の田川郡香春町に通じる門)や中津口門(今の大分県中津市に通じる門)はそれぞれ「香春口」「中津口」として、地名に残されています。

小倉城

関門海峡に面した小倉は陸海の交通の要衝として、古くから砦や城が構えられた地でした。この地を抑えるために繰りひろげられた、多くの豪族たちの攻防の歴史も残っています。小倉城の歴史は、戦国末期(1569年)、中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことから始まります。その後、高橋鑑種や毛利勝信が居城し、関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興によって、1602年に本格的に築城が始まり約七年の歳月を要しました。忠興は城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工業保護政策を実施。外国貿易も盛んにし、同時に祇園祭りも誕生させました。

細川氏熊本転封の後には、1632年に、播磨国明石から細川家とは期戚関係にある譜代大名の小笠原忠真が入国。小倉・小笠原藩は、将軍徳川家光から九州諸大名監視という特命を受けていました。この時期、小倉は九州各地に通ずる街道の起点として重要な地位を確立し、同時に小倉城は一層充実し、城下町も繁栄しました。小笠原忠苗の時期には、城内下屋敷に泉水を持つ回遊式庭園もつくられています。しかし、1837年城内から発した火災によって全焼。2年後に再建されましたが、天守閣は再建されませんでした。

幕末期になると、小倉は長州落を攻める第一線基地となり、その中で小倉と熊本藩は勇敢に戦いましたが、他の九州諸藩の兵には積極的な戦意がなく、ついに1866年、自ら小倉城に火を放って戦線を後退せざるをえませんでした。明治10年の西南戦争の際には、小倉城内に駐屯していた歩兵第14連隊が、乃木将軍に率いられて出征しました。その後、歩兵第12旅団や第12師団の司令部が城内に置かれました。太平洋戦争後は米国に接収されましたが、1957年に解除され、1959年市民の熱望によって天守関が再建されました。

からづくりこの天守閣は「唐造りの天守」と呼ばれ、四階と五階の間に屋根のひさしがなく五階が四階よりも大きくなっているのが特徴的です。また、城の石垣は切り石を使わない野面積み(のづらづみ)で、素朴ながらも豪快な風情にあふれています。

小倉城ホームページを参照>>

小倉城庭園

北九州市立小倉城庭園は、小笠原氏の別邸であった下屋敷(御遊所)跡を復元した大名の庭園と典型的約な江戸時代の武家の書院を再現し、それに茶室や展示棟を備えた文化施設です。小倉城を築いた細川氏のあとを継ぎ234年にわたって城主をつとめた小笠原家は、徳川幕府の有力な大名でした。同時に全国の小笠原一族の総領家でもあり「小笠原流礼法」の宗家として知られる旗本の小笠原家もその一族です。

小倉城ホームページを参照>>

礼法は「思いやりの心」と「もてなしの心」を大切にする日本の伝統的な文化のひとつです。小倉城庭園は、その心とともに礼法の歴史などを紹介し、礼法を中心にした伝統的な生活文化を後世に伝えていくための日本で唯一のユニークな施設です。またビルに囲まれた都心にありながら、小倉城とともに、江戸時代の雰囲気を感じることのできる北九州市の名所です。一服の抹茶をのみ、自然と文化の薫りに浸かり、静かな落ち着いた時間を楽しむことができます。